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今治の謎100
海賊と水軍の違いってどんなところ?

 九世紀、貞観年間の頃「三代実録」に来島海峡の西の入口にいた海賊の記述があります。また、中央政府に不満を持つ藤原純友が乱を起こします。純友は越智一族、今治出身との説もあり、近海の海賊を率いて瀬戸内海一円を制圧しようと図ります。しかし、腹心の藤原恒利の裏切りもあって殺されてしまいます。

 12世紀になると海賊衆は組織化され、軍団となっていきます。越智一族の中から河野氏が源氏方を応援しました。河野氏の戦力の中心は海上の船力にあったのです。大三島大山祇神社の国宝の鎧に名を残す河野通信の時代になって、伊予水軍の基盤が確立されました。

 南北朝の動乱期には幕府公認の警護料や帆別銭をとっていましたが、時には朝鮮から中国沿岸まで貿易に出掛けていました。中国貿易の証は能島から発掘される中国銭や青磁、白磁片がこれを物語っています。

 十四世紀、河野家と関係のあった村上氏が台頭し、村上水軍を統一しました。村上師清の子供達が因島、能島、来島にそれぞれ拠点を置いたため、村上三島水軍と呼ばれることとなりました。

 この村上水軍は室町時代から戦国時代にかけ、海の覇者として戦ってきましたが、その名前を高めたのは厳島合戦において毛利方に味方し、陶方の水軍をせん滅したこと。織田軍団を相手に大阪湾で九鬼水軍を打ち破ったこと。秀吉の朝鮮出兵にも参加しています。

 以後は秀吉の天下統一の波をかぶり、航行の安全のための警護料や帆別銭をとることを禁止され、瀬戸内海から追われてしまいます。この時の村上武吉と豊臣秀吉の確執は城山三郎の「秀吉と武吉」に詳しく書かれています。

 徳川幕府の成立にともない、水軍の将たちはふるさとを離れ、異国の地で暮らすものや毛利家の家臣となるもの、あるいは帰農するなど時代の流れに身を任せ、分散していきました。

 来島家は豊後(大分県)に移封され、日田、玖珠、速見の三郡を領し、森へ移りました。この地で来島通春は名前を久留島と改め今治に帰ることはありませんでした。

 時代によりさまざまな姿を見せる海の民たち。この人たちは愛する海を守るために戦ってきたのです。この気持ちがある限り、海賊というよりも水軍と呼ぶ方が向いていると思うのは私だけでしょうか。
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